神谷英樹氏がヘッドを務める新スタジオ「クローバーズ」に潜入!神谷氏のパートナー小山兼人氏に クリエイティブの原体験や展望を訊く【独占インタビュー前編】 | GameBusiness.jp

神谷英樹氏がヘッドを務める新スタジオ「クローバーズ」に潜入!神谷氏のパートナー小山兼人氏に クリエイティブの原体験や展望を訊く【独占インタビュー前編】

神谷英樹氏が参加する新スタジオ「クローバーズ」に潜入してのロングインタビュー。前編では社長・小山兼人氏の人物像に迫ります。

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新オフィスでの神谷英樹氏(写真左)と小山兼人氏(同右)

プラチナゲームズを退社した神谷英樹氏が「スタジオヘッド兼チーフゲームデザイナー」に就任した、新たなゲームスタジオ「クローバーズ(CLOVERS)株式会社」。神谷氏がディレクターを務める『大神 完全新作』プロジェクトの始動も発表され、世界中から今後の動向に注目が集まっています。

今回はそんなクローバーズが2025年2月に入居したばかりの大阪の新オフィスを訪問。スタジオ立ち上げを実現させた代表取締役社長の小山兼人氏、そして神谷氏という2人のキーマンにロングインタビューでお話を聞きました。

小山氏を形成した映画とハンドボール、そして中古の『FFⅢ』

――最初に簡単な自己紹介をお願いします。

小山:クローバーズ株式会社で代表取締役をやっています、小山と申します。前職はフリーランスとしてプラチナゲームズで神谷と一緒に仕事をしていまして、2023年にクローバーズを設立しました。よろしくお願いします。

神谷:クローバーズスタジオヘッド、チーフゲームデザイナーの神谷です。よろしくお願いします。

「スタジオヘッド」って一度名乗ってみたかったんですよね。

肩書についてはゲームデザイナーという職業にこだわりと誇りがありますし、自分のプロジェクトだけではなく、会社全体の作品のクオリティの向上に寄与する立場として助言したり見守ったり、時に監修したりという形で参加したいという思いで“チーフ”と付けています。

――本日は大阪の新オフィスにお邪魔していますが、移転されたばかりなんですよね。

小山:正式に稼働し始めたのが2月10日頃ですね。なので内装などはこれから仕上げていく段階で、このオフィスになってからはGame*Sparkさんが初めての取材です。

――それは光栄です! 現在は何名ほどのスタッフで取り組まれているのでしょうか。

小山:今は大阪のこのオフィスで20名弱。東京にも5名ほどいますので、合計で25名くらいですね。

神谷:執務エリアの方もまだ完全には机が入りきってないんです。差し当たって今の人数が仕事をできる分だけのテーブルは整えたという状態で、ルックとか雰囲気はまだまだこれからですね。

――ここから内装や雰囲気をどう作りたいというイメージはありますか。

小山:ゲームのコアを作る集団として「工房感」とでも言いましょうか。私たちは「人の心の通ったものを作ります」というイメージを表現していけるオフィス作りになっていくのかなと思ってます。同時に、やっぱり執務エリアはリラックスした環境になっている方が絶対にパフォーマンスも発揮できると思いますし、そういう働きやすさもイメージの体現とセットで両立させていきたいですね。

神谷:我々は大きな工業製品を作るというよりも、職人としてこだわりのこもった作品を作り上げるつもりで、これまで通りゲーム作りに取り組んでいきます。オフィスに入ってきた皆さんに見ていただくエントランスエリアも、工房のようなイメージにしたいですね。

――今回はそんなクローバーズのキーマンとなるおふたりのことを深く聞きたいと思っています。特に小山さんはあまりパーソナルな情報を公開されていませんよね?

神谷:そういう意味では、あまり出たがらない人間だよね。

小山:そうですね(苦笑)。クリエイターとしてはもちろん作品を出していきたいと思っていますが。

神谷:今は社長業とゲームデザイナーを両立してもらっています。

――インタビューの定番ですと「大学を出まして~」という辺りから経歴を伺うのですが、できればもっと前の、ゲーム作りやクリエイティブの原体験になっているようなところからお伺いしたいです。

小山:僕は滋賀県の織田信長が安土城を築いた「安土町(現:近江八幡市)」という町で育ちました。いわゆる「やんちゃな子」でしたがゲームも好きで。ゲームソフトをポンポン買えない時代だったので自分か友達の家でずっとファミコンやスーパーファミコンで遊んでいましたね。

神谷:具体的にはどんなタイトルを遊んでたとか、ハマっていたとかはあるの?

小山:1番最初の記憶として残っているのは、幼稚園の年長の時に自宅のファミコンで『スーパーマリオブラザーズ』をやっていたことですね。当時は、1-2でワープして4-1へ行って、4-2でワープして8-1へ行って、そこからクリアできない、ということを延々と繰り返していました。たまに8-2は行けても、そこから先へは絶対進めなかったですね。

神谷:いきなり良いゲーム遊んじゃってるよね。当時は本当にもう有象無象の作品が登場していてぐちゃぐちゃだったけど、最初に一番良いマスターピースを引いてる。

小山:そういう意味では良いゲーム体験から入ってますね。

神谷:他のやつ全部クソゲーに思えたんじゃない?

小山:そんなことないですよ(笑)。ずっと言ってますけど『魔城伝説II 大魔司教ガリウス』とか『バイオ戦士DAN』が好きでした。でも『バイオ戦士DAN』は友達の家でプレイしたので自分は持ってないですし、なんならクリアもしていないんですが。

――ちょっと特殊な思い出の作品ですね。

小山:そんな感じで小学校時代のファミコンの記憶が残っていますが、今でも心に刻まれているのは『ファイナルファンタジーⅢ』ですね。当時の僕はサンタさんに『SDガンダム外伝 ナイトガンダム物語3 伝説の騎士団』をお願いしていたつもりだったんですが、朝起きたら枕元にあったのは『FFⅢ』だったんですよ。

別に僕はファイナルファンタジーに全然興味なかったんで「なんやこれ」って感じでしたし、いざやってみたらレベル99のたまねぎ剣士が出てきたんですよ。

――中古だったんですね(笑)。

小山:おかげで1番最初からラスボスと戦えて簡単に勝てましたが、それでかえって「最初からちゃんとやろう」という気持ちになったのか、結局しっかりプレイしました。当時はRPGにあんまりハマれない感覚があったんですが、自分で選んだジョブによって戦闘スタイルが少し変わるのが楽しくて、自分のゲームクリエイター人生に影響を与えたとまでは言えないかもしれませんが、現在も心に残っているタイトルなのでサンタさんには感謝しないといけませんね。

神谷:ゲームハードは買ってもらったの?

小山:ファミコンは父親が譲り受けたものだった気がします。だから『スーパーマリオブラザーズ』の裏にも落書きがありました。

神谷:そういう時代だったね(笑)。新品で買えるのはかなり恵まれてると言える頃だよね。

小山:そうですね。うちの家にも「ゲームばかりはダメ」っていう風潮はあって、スーパーファミコンの導入も遅かったです。続くプレイステーションとセガサターンの時代も、どちらか1つを自分で買うしかなくて、中学生の時にセガサターンの白をお年玉で買ったのが初めて自分で購入したハードでした。

――セガ派だったのでしょうか。

小山:友達がセガサターンの黒を持っていて、それで欲しいなって思っていましたね。当時からプレイステーションはスマートでかっこいいタイトルもいっぱい出て、対してセガサターンの方はちょっと泥臭いと言いますか、応援したい感じもありました。なので、その次の世代もドリームキャストを選んでましたね。

――かなりゲームに親しむ幼少期ではあったんですね。

小山:特に小学生の時代はファミコンとスーパーファミコンで過ごしましたが、中学生からはゲームよりも映画にハマりました。本当はひとりで校区外に出ちゃダメみたいな決まりがあったんですが、なにせ映画館がどこにもない田舎だったので、ひとりで市街地の映画館へ出掛けて、1日に3本まとめて見る、 みたいな生活をしていました。

神谷:今みたいなシネコンがあったの?

小山:滋賀県にも確か2個ぐらいありました。僕はハリウッド映画みたいな大作が好きで、まず「1番見たい映画」を決めて、あとはその時間に上手く合う上映時間の作品を見るんです。お小遣いもそんなにはなかったので、朝一番に一番大きいポップコーンとジュースを買って、それをチマチマ食べながら過ごしていました。本当に映画三昧で、ゲームデザイナーを目指す前は映画監督になりたかったくらいです。

――ゲームから映画へ、関心のあるエンターテイメント分野が変わったと。

小山:そこからまた高校になると大きく変わりまして、京都に引っ越して3年間ハンドボールの部活漬けの毎日になったんです。本当に部活ばかりで映画もゲームもあまり触れられなかったのですが、2年生秋の新人戦で京都府内で一番になれたんですよ。後々の人生への影響という意味では、この出来事が1番大きかったかなと思っています。

――印象的な経験があったのでしょうか。

小山:ハンドボールは1チーム7人のスポーツなんですが、一学年でチームが組めるかどうかくらいの、決して人数の多いチームではありませんでした。ただ、僕の同学年にはたまたま良いメンバーが揃っていて、なおかつ仲もすごく良くて、チームワークはかなり高かったですね。その頃の仲間とは今でも連絡を取り合っていて、年末は部活の顧問の先生の家で忘年会を毎年やっているくらいです。

当時は外部から「いい選手はいるけど、優勝はないよね」くらいの評価だったと後に聞いたのですが、厳しい練習に打ち込んだ成果が試合で上手く発揮できて、見事に優勝できたんです。自分は「努力しても裏切られる場合もある」とは思っているタイプなんですけど、やっぱり努力しないと結果は出ないよなっていうのが身に染みる経験になりました。

アルバイトから始まったゲーム業界。そして神谷氏との出会いへ

――大学時代はどのように過ごされましたか。

小山:大阪芸術大学の映像学科に進んで映画の勉強をしていたんですが、自分の中で映画作りに、なんと言いますか……違和感を感じるようになったんです。色々理由はありますが、あまり学校にうまくはまらず、ちょっとくすぶりながら大学4年間を過ごしました。それでも就職にあたってはエンターテイメントに関わりたいという気持ちがあったんです。大学時代に映画と疎遠になりあまり見なくなってしまったんですけど、それでもずっと続けていたのがゲームだったんですよね。

――それでゲームデザイナーへの道に?

小山:そうですね。ただ、ゲームデザイナーっていう仕事はゲーム好きの子供なら誰もが一度はなりたいと考えるのではないかと思うのですが、僕はなぜか勝手に、とても崇高で「神の領域の人たちだ」と思い込んでいて、自分が仕事にするっていう選択肢にまったく入って無かったんです

なのでゲームデザイナーになる術についても無知でして、ゲーム会社を受けようと思った頃には新卒採用が締め切られてしまっていました。仕方なく就職浪人して応募しようと考えたんですが、当時はまだ第2新卒のような概念もあまりなかったんです。関西を中心に10社以上は企画書を作って送ってみるなどしたもののご縁がなく、そこで頼ったのが「マリオクラブ」のアルバイトでした。

――「マリオクラブ」は任天堂タイトルのデバッグを専門とする子会社ですね。

小山:そうです。当時はまだ分社化される前の「品質管理部門」でしたね。「僕はデバッグじゃなくてゲームデザイナーがやりたいから」と思ってあまり進路として考えてはいなかったんですが、ゲームデザイナーとしてはどこも書類で落ちてしまい、なんとかゲーム業界に入る最後の砦として応募したら、ありがたいことにそこで採っていただけまして、ゲーム業界でのキャリアがスタートしました。2007年でしょうか。

神谷:じゃあちょうど『大神』のリリースの翌年だ。

――神谷さんが『大神』を世に届けていた頃、小山さんはデバッグのアルバイトからキャリアをスタートさせていたんですね。

小山:そうですね。マリオクラブでは当然デバッグの仕事をしていましたが、その仕事がめちゃくちゃ楽しかったんですよ。任天堂の製品に自分が関われている実感もあって、バグを出すのも得意でした。本当はゲームデザイナーになりたかったのに、その環境の良さと仕事の楽しさでステップアップをあまり考えなくなっていました。

そうして仕事をしていたら、働きぶりが認められて「開発会社さんに出向に行ってくれないか」という話が来たんです。マリオクラブでのデバッグは開発現場とはかなり離れていたんですが、そこの会社の作業部屋では壁の向こうでゲームが開発されていて、その状況がうっすらと伝わってくるんですよ。すると「やっぱり僕はほんまはこっちがやりたいんだよな」という気持ちが沸々と湧き上がってきたんです。

――クリエイターを目指した当初の気持ちを思い出したんですね。

小山:正直、品質管理部に入った時には「ここからゲームデザイナーへの道もあるんじゃないか」と甘い考えも持っていたんですが、働いていく中でそういう道は難しいことも理解していました。そこで転職を決意したんですが、ちょうどDeNAが大阪にゲーム開発スタジオを作るタイミングで、未経験でも応募できるゲームプランナーの募集があったんです。運よくそこへ採用されたのが2012年のことでした。

――ゲームデザイナーではありませんが、プランナーとしてクリエイターの道を歩み始めたと。

小山:そうですね。するとマリオクラブの時もそうですが、どうにも僕は目の前の仕事を楽しく感じちゃうタイプっぽくて、DeNAでの運営型ゲームのプランナーの仕事も楽しかったんですよ。KPIを分析してユーザーの動向を把握し、的確な施策を打っていく。それで売り上げが上がるか下がるか……というプランナーとしてのアクションが、ダイレクトにユーザーの意見や売上に反映されることが楽しかったですね。

もう1つ、DeNAには当時「発言責任を果たしましょう」というポリシーのようなものがあって、これは「言ったことはやりましょう」ではなく、「思ったことは言いましょう」っていう文化なんです。自分は課題と思う部分に気づいても「これはやっぱり変えられない」という状況を見てフラストレーションを溜めることも多いタイプだったんですが、DeNAでは課題が見つかったら発言して伝えるべきという文化があり、なおかつ「解決まで自分でやりましょうか」と提案すると、任せてもらえることがよくあったんです。

――性分と社風がマッチしていたんですね。

小山:仕事を自分で前に進めていく経験を積めたのは後々の人生にもかなり大きな影響を与えていると思っています。ですのでDeNAでの仕事は楽しかったんですが、やはり心の中に「コンシューマゲームが作りたい」という想いを抱えながら働いていたんです。

で、ここからようやくプラチナゲームズや神谷の名前が出てくる段階なんですが、ある日ネットのニュースで「スタッフが足りず『Scalebound』の開発ができない」という旨の記事が出ていたんですよ。それを見て「人が足りへんなら、採ってもらえるチャンスちゃうか」と思い、応募することにしたんです。業種が違うので難しいとは思ったのですが、受けるだけ受けてみようと挑んだところ、ご縁があってプラチナゲームズに入社できました。

神谷:なんか僕も面接をしたらしいんですよね。最終?

小山:一次ですよ。今でも覚えています。長机に稲葉(敦志)さんと山中(雅貴)さん、(齋藤)健治さん、そして神谷が座っていて、特に神谷は僕に何の興味も示しませんでした(笑)。

神谷:さすがになんか聞くと思うんだけどなぁ(笑)。

小山:稲葉さんに好きなゲームを聞かれて、当時めっちゃプレイしていて影響も受けた『Call of Duty 4』の名前を挙げたんですが、本当に全員「ふーん」って感じで全く刺さっていなかったんですよ。これはまずいと思って『大魔司教ガリウス』って言い直したんですが、これまた全員ポカンって感じで、稲葉さんが神谷に「分かりますか?」って聞いても頷くくらいで。

神谷:あー。僕はそういうところでオールドゲームの名前出すやつ、カチンと来るんだよね(笑)。

小山:面接を受けた時は「これはダメかな」って感じでしたが、ありがたいことに採用いただけました。あれは当時のプロジェクトに必要だと思っていただけたんですかね?

神谷:必ずしも「このプロジェクトでマッチングするから」っていう理由だけでは採らないと思う。実際に一緒に働いてみないと本当のところはわからないんですが、面接官をずっとやっていると、話の中でどういう人間なのかは感じ取れるんですよ。

ちんぷんかんぷんなようで刺さることを言ってきたり、あるいは人が興味を示さないようなものでも特殊なすごいこだわりを持っている人だったり。質問の趣旨を理解して細かな言葉選びや文法もしっかりした返事が返ってくると、知的レベルが高くて信頼が持てるなって感じますよね。これで行くと小山は最後のタイプだったんじゃないかなと。

――話題は刺さらずとも、良い印象は伝わっていたんですね。

小山:でしたら嬉しいですね。プラチナゲームズで実際に携わったのは、DeNAと共同開発していた時代の『World of Demons – 百鬼魔道』です。ゲームデザイナーとして入らせていただいて、1年ぐらい経ったころから、ディレクターだった山中さんがエグゼクティブディレクターという立場になられて、僕がディレクターとしてその後を引き継ぐような状態になりました。一旦は完成間際のところまでは仕上げたのですが、残念ながらその形では世に出ませんでした。この辺りは過去に別の媒体で記事になったこともありますが、端的に表現すると当時はF2Pの課金型モデルのようなタイトルとして開発をしていました。後に、再設計されたものが、2021年にApple Arcadeの独占タイトルとして配信されていますが、僕はその前身となる作品に携わっていたんです。

――その後もプラチナゲームズにてお仕事を?

小山:いえ、その後は理由あってプラチナを一度辞めることになり、株式会社DONUTS京都オフィスのゲーム部門に勤めていました。実はプラチナゲームズで仕事をしている時に「コンシューマでゲームデザイナーとして働くための能力が自分には足りてないな」とひしひしと感じていたんですよ。その前に運営型タイトルのプランナーをやっていた頃には感じなかったことなので、そっちが向いているんだろうと、モバイルの業界に帰ろうと思ったんですよね。

――では、DONUTSでもプランナーに戻られたのでしょうか。

小山:それがですね、面接が終わってDONUTSから自分の元へ届いたオファーは「ゲーム部門の責任者をやってもらえませんか」というものだったんです。まだ30過ぎと若い自分がそんなことを経験させてもらえるチャンスは他にないよなと思いましたし、自分が「こうした方がもっとチーム良くなるんじゃないか」と考えていたアイデアやカラーを強く発揮できるかもという好奇心もあり、責任者をやらせてもらうことになりました。

この組織作りは今の社長業にも生きているのかなと思いますね。今のクローバーズのメンバーにはDONUTSで僕が一緒にやっていたメンバーもいたりします。そこで2年半ほど働いていたんですが、ある日プラチナゲームズ時代の同僚だった方から「小山さんは神谷さんと一緒に仕事をしたいって言ってましたよね。今ならその機会があるんですが」と連絡がきたんです。

――急展開ですね。

小山:驚きましたね。ただ、僕自身責任者という立場になっているので一度はお断りしたんですが、自分自身の働き方を変えたいなと思ってたタイミングでもあったんです。

というのも、DONUTSのゲーム部門責任者として自分がやりたかったことはもう完成していたんですよね。2年以上経って働き方のサイクルも醸成されて組織への不満もなく、自分の仕事だけなら「週に2日あればできるんじゃないか」という状態まで来ていたんです。それならプラチナゲームズでの話も受けられるんじゃないかと思い、社長に「フリーランスになることは出来ますか」と相談したらOKが出まして。そこからはフリーランスとして週2日DONUTSで、週3日はプラチナゲームズで働くようになりました。

神谷:この時に小山に連絡が行ったのは、僕がお願いしたんですよ。ちょうど『プロジェクト G.G.』を発表した頃で、それまでのプラチナゲームズがやってこなかった分野にも挑戦しようかっていう企画だったので、その知見が欲しいなっていう風に思ったんですよ。

ただ、そこにマッチングする人間は他のプロジェクトにアサインされているのもあって会社の中で見つからなくて、どうしようかなと思った時に小山を思い出したんです。先ほど話にもあった『World of Demons – 百鬼魔道』の頃、僕は一緒には仕事してないんですけど、ディレクターを務めた山中から小山の働きぶりってのは「すごく処理能力が高いし、仕事を正確に仕上げてくれてる」と聞いてたんですよね。

――そこで小山さんを再び頼ろうということになったんですね。

神谷:当時の彼の役割は僕が『プロジェクト G.G.』でも必要としてることでしたし、彼がプラチナゲームズを辞めた時にすごく残念に思っていたこともあり、社内で連絡先を知っている人を探して「一緒に仕事できないか」ってアクセスしてもらったんですよ。

話があった通り最初は按分でっていう提案でしたが、もう全然それでもいいからと来てもらって、ちょっとずつこちらへ取り込んでいきました。

小山:そうですね(笑)。まあ、フリーになった時点でDONUTSの仕事は他者に引き継ぐことも考えながらやっていました。半年ぐらいでしっかり引き継ぎをして、それからはプラチナの方に専念するようになりましたね。

――別媒体のインタビューでは小山さんを再び正社員に誘ったというお話も見かけたのですが。

神谷:プラチナでは社員だけが参加する全体会議みたいな、会社の大きい方針を社員全員に伝える会が定期的に行われるんですね。その会議が終わった後にフロアに戻ってきて「さっきの会議の内容だけどさ~」って皆で話してる場に小山もいるんですけど、毎回「僕フリーランスの人間なんで、ミーティング出てないんですよ」って。その度にもう社員になれば良いじゃんってイラっとしてました(笑)。

実際に社員になってほしいとずっと言ってたんですけど、彼は頑として首を縦に振らなくて。ある日、稲葉が「小山くんは社員にならないんですかね」って聞いてくるんで「僕もずっとラブコールを送ってるんだけど」って。そこで稲葉が「じゃあ僕の方からも声かけていいですか」って言うんで、もうどうぞどうぞだったんですけど、後日稲葉が小山を連れて会議室に入っていって30秒くらいで出てきたのを見て、「ああ、やっぱりダメだったか」と玉砕を悟りましたね。

――小山さんはそのことを覚えてらっしゃいますか?

小山:覚えていますし、実際にそういうお誘いでした。ただ、「僕は今の働き方が気に入ってるんで、すみません」と。

――フリーランスとしての立場が良かったということでしょうか。

小山:目の前の仕事を楽しく感じるタイプという話もしましたが、会社に所属したら恐らくマネージャー業務をやることになるというのは予測できていて、僕自身別にそれは嫌いじゃないんです。

でも、その時点で自分は作ったものを世に出せていない状態の人間だったので、もっとゲームを作ることに集中したかったんですよね。それが会社に所属したらそれができなくなるだろうというのもあって、本当にゲームのことだけを気にすればいいっていう働き方が気に入っていたので、そういう経緯で正社員の話は受けませんでした。

神谷:確かに小山のキャリアだったらマネージャー業務も任されていたでしょうね。でも実際、僕がプラチナゲームズで3年間一緒にやっていた間は、小山の存在感的には「あの人はフリーランスだ」っていう意識は社員の中になかったと思いますよ。

小山:プラチナゲームズの社員の面談とかもしてましたね(笑)。マネージャー業務も全然やりたくないわけじゃないんですけど、業務が乗り始めるとめちゃくちゃ乗ると思ったんで、完全に肩書にはしたくなかったんですよ。

神谷:でも全体会議の話をすると「僕出てないんで」って。毎回めんどくせぇと思ってましたよ(笑)。

――そして神谷さんの退職を知った小山さんが声をかけて、クローバーズの設立に繋がるのですね。

小山:そうなりますね。

――まさに「人に歴史あり」と言いますか、興味深いエピソード満載のご経歴でした。小山さんのクリエイターとしての原点は映画やゲームの体験にありそうですね。

小山:ですね。エンターテイメントが好きだというのはずっと繋がってきていると思います。


新社長の人物像も少し明らかになった本インタビュー。後編では今後手がけていくタイトルなど、「クローバーズ株式会社」の未来に迫ります。

後編に続く

《ハル飯田@Game*Spark》

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