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シブサワ・コウ。この名前は、筆者の長年の憧れでもあります。
『信長の野望』『三国志』『大航海時代』などの様々な歴史シミュレーションゲームをこの世に送り出した名プロデューサー。恥ずかしながら筆者は人生の半ばまで、シブサワ・コウは時代劇脚本で有名だった「葉村彰子」のような創作チームだと思っていました。しかし「シブサワ・コウ」を名乗る人物は本当に存在し、おまけに本人が筆者の目の前にいる!
CEDEC 2023に登壇したシブサワ・コウこと襟川陽一氏(コーエーテクモホールディングス代表取締役社長)は、講演『シブサワ・コウのゲーム開発』にて自身の半生を振り返ると共に「今後のコーエーテクモの戦略」についても語りました。
染料問屋からゲームメーカーへ
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コーエーテクモの前身である光栄は、もともとは染料問屋でした。
1950年生まれの襟川氏は、慶應義塾大学商学部卒業後に中堅商社に就職。コンピューター分野とは全く関係のない仕事だったとのこと。ある時、染料問屋を経営していた父親に「会社が危なくなっているので戻ってきてほしい」と頼まれ、栃木県足利市の実家に戻ります。
70年代、日本の繊維業界は海外からの輸入攻勢に押されていました。生糸は中国、そして染料は東南アジアからの安い製品に圧倒され、襟川氏の実家の会社もやがて倒産してしまいます。
「自分ならああしただろう、こうしただろうという若気の至りがありました」
そうした思いから立ち上げたのが、株式会社光栄です。もちろんこの時の光栄は家業再興のための企業、即ち先代と同じく染料問屋です。
「こういう無謀は若い時にはやるべきだと思います。これがなければ、今のコーエーテクモはなかったわけですから。……ただ、いざスタートしてみると会社とはそんな甘いものではなく、いろんなことを取り組んでみたけれど上手く行かない。つまり、ずっと赤字だったわけです」
そこで襟川氏は、本屋に行って様々な経営者の本を買い込みます。松下幸之助、稲盛和夫、ドラッカー。そしてその中で、襟川氏は電波新聞社が発行していた『月刊マイコン』に出会います。
「『マイコン』を開いてみると“パソコン世代到来!”と書いてありました。興味が出て、その雑誌を読んでいるうちにパソコンが魔法の小箱のように思えるようになり、パソコンが欲しくなりました。ただ、それを買うお金がない。その当時の大卒初任給というのは8万円ほど、一方でパソコンは20万円から30万円もしました」
そんなことを周囲にも漏らしていただろう、と襟川氏は振り返ります。それを見かねた奥さんが、ヘソクリからシャープの『MZ-80C』を誕生日プレゼントとして買ってくれたのは、よく知られた話です。
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段ボール箱一杯の現金書留
『MZ-80C』を染料問屋である光栄の在庫管理や財務管理に使っていた襟川氏、しかし最も面白かったのは「仕事が終わったあとにゲームを作ること」だったそう。
「その当時流行っていたのはスペースインベーダーとかパックマンとか、要するにアクションゲームです。ただ、私が好きだったのは将棋や囲碁のようなじっくり思考するゲーム。ですが当時、そういう“考えて楽しむゲーム”はあまりありませんでした」
ならば自分で作ろう、と思い立った襟川氏。そして、そのゲームを通信販売で売ったところ、全国各地から現金書留が届き、段ボールが一杯になってしまったとか。
「自分と同じような感性で同じように楽しむ人がこんなにいるんだ! ということにビックリしました。もっと驚いたのは、ゲームを買ってくださったお客様とダイレクトにコミュニケーションを取れるようになったことです」
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このゲームこそ、光栄がゲームメーカーとしての第一歩を踏み出した『シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦』です。
『信長の野望』の衝撃
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1983年、光栄は『信長の野望』を発表します。
「これは口コミで評判になりました。最初は辛気臭いゲームと言われていましたが、徐々にヒットしていきました」
自宅のPCディスクの前にどっしり構え、長時間思考しつつ自信の一手を繰り出すコンピューターゲーム。これは極めて革命的なものでした。
上述のスペースインベーダーやパックマン、さらにそれ以前にアタリが制作したPONGは思考よりも反射神経が物を言います。つまり、この時代のコンピューターゲームとはフィジカルスポーツに近いものが主流だったということでもあります。『信長の野望』のように将棋の要素を備えつつ、さらに「史実を覆すこともできる歴史シミュレーションゲーム」はまさに「ユーザーが密かに待ち望んでいたもの」でした。